体罰から教育を考える
体罰は必要か?という議論は昔も今も長きに渡ってされているものの、結論は未だ出ていない。そもそも子どもを育てる上で体罰を行わずに育てるのは不可能という意見は、体罰を受けて育った人の意見かもしれない。もし、体罰を受けずに育った人は体罰の必要性を感じないかもしれない。我が子を虐待し殺すという事件がある中で、あらためて体罰にも目が向けられてきている。
ディアボロ先生〜!公園でボール遊びしてたら、知らないおじさんに頭叩かれたよ〜!パンプキン公園でボール遊びは禁止だって!
大丈夫かい?君は人間よりは体が強いけど、それはビックリしただろうね〜。
そうなんだ。痛くはなかったけど急だったからビックリして訳が分からなかったよ。あとで看板にボール遊び禁止って書いてあるのを知ったけど、何も殴らなくても良いのに!それに公園でボール遊び禁止だって言われたから、家の中でボール遊びしてたら今度はママに叱られたよ〜!ママは殴らなかったけど。どこで遊べば良いの〜!
そうだね。言えば分かる事でもわざわざ叩いてくる人がいるね。公園でボール遊び禁止のところが多いけど、本当に昔に比べたら外で遊べなくなったね。子どもは家でテレビゲームしてないで外で元気に遊べっていう人間がいるけど、外で出来る事の制限が昔より多いから大変だね。本当に頭大丈夫?
頭は大丈夫だよ!人間のおじさんだったからね。暴力反対!体罰はして欲しくないな〜。
このハーデス小学校でも人間の学校と同じで体罰は禁止されているよ。
学校の先生って体罰禁止なの?
もちろん禁止だよ。もし、暴力によってルールを守らせる、または言うことを聞かせるという方法が当たり前の教育だとしたら、子ども達はそれがルールや言うことを聞かせる当然の方法だと学んでしまうでしょう。
それはそうだよね。もし先生が暴力を当たり前のように使っていたら、生徒が暴力で問題を解決している事を注意できないよね。
それもそうだね。大人の社会で、もし会社の上司から叱られるときに殴られたら多分ほとんどの人が会社を辞めるよね。その前に暴力を振るわれた事で訴えるだろうけど。じゃあ何故大人の世界では犯罪なのに、子どもの教育現場ではそれを教育だと言えると考える人がいるんだろうね。
子どもは未熟で大人は口で言えば分かるって考えの人がいるって事なのかな?
そうかもしれないね。でもマー君はパンプキン公園で何故ボール遊びが禁止なのか理解出来たかな?
看板に禁止って書いてるから・・・。何故かは分からないな。
頭を叩いても何故それがいけない事なのかは理解出来ないって事だね。
そりゃそうだよ!ビックリして怖かっただけだもん!もう公園でボール遊びはしないけど、今度あのおじさん見つけたら襲っちゃおっかな・・・。
熊の君が襲っちゃうとおじさん死んじゃうよ。君が熊じゃなくても襲っちゃダメだけどね。さっきの、子どもは未熟っていう意見だけど、何故しちゃいけないかが分からないからするとも言えるよね。もしくは他の方法を知らないからとも言える。
そうだね。僕はママに「ボール遊びはお外でしなさい」と言われたのに、公園がダメだとは聞いてなかったもん。おじさんも他で遊べるところ教えないで叩いただけだもん。ひどいよ〜。
じゃあ教育と体罰について簡単に解説しておこうかな。
教育・・・教え育てること。知識,技術などを教え授けること。
体罰・・・肉体に直接苦痛を与える罰。
頭を叩いて「やめろ」というだけでは教育とは言えないね。もちろん暴力おじさんは教育のつもりでやった訳じゃないだろうけど。何故、パンプキン公園ではボール遊びが禁止なのかを説明してくれたら教育的ではあっただろうけどね。
ところでなんでパンプキン公園はボール遊び禁止なの?
地域住民から市に「ボールが頭に当たったら危ない」というクレームが入って禁止になったそうだよ。
えー!誰か怪我したの?
してないんだけどね。最近こういうクレームが多くて、どこもかしこも禁止にしているんだ。
え・・・。
矛盾した社会で大人たちも教育が難しくなる
決して最近の話ではなく、公園でボール遊びや花火が禁止なところが多い。ほとんどと言って良いほどだ。私の個人的な意見だが、このようなクレームや体罰をする大人たちは子どもを馬鹿にしすぎではないかと思う。「叩かないと分からない」「子どもは何をするか分からない」などは見守る大人たちの度量の小ささをそのまま言葉にしただけではないか。最後に説明する「体罰に当たらない正当な行為」は必要ではあるが、教育と体罰は全く別であるという観点が抜けている限り、教育を語る資格などない。そもそも私たちは言葉の定義をあやふやにしすぎなのだ。言葉の定義をはっきりさせた上で、議論しなければ議論になりもしないのは当然である。
ボール遊びが禁止な理由はディアボロ先生が説明した通りなのだが、そもそも周りに小さい子どもがいれば、ボール遊びをする子どもたちも危険を認識しボール遊びを中断するだろう。それぞれが考え行動を抑制したりすべきで、もし本当に危険な行為に子どもたちが気がついていないのであれば、親や地域で見守り注意を促せばよい。
そして、そういう考えである大人が多くいるにも関わらず、少数のクレームにより、公園でのボール遊びを全面的に禁止されてしまうと、親たち自身も子どもとボール遊びが出来なくなり、もし子ども達に元気にボールを遊びをして欲しいと思っている親が、その公園で子ども達にボール遊びを許したとしたら、その親がルールを破ったことになる。子ども達は自分の親がルールを破ることをどのように感じるだろうか。親達もルールを守ろうとする場合、親自身が納得できないルールを子ども達に納得させられるだろうか。
また、都内ではほぼ花火は禁止されている。私が住む田舎でも一部の公園では花火は禁止だ。ほとんど実行不可能な花火はその季節になればコンビニなどでも手に入る。手に入るが可能な場所がない。これもボール遊びとよく似た現象ではないだろうか。
ディアボロ先生は公園でのボール遊びは禁止にした方が良いと思う?
思わないけど、クレームを言う人の気持ちは分かるよ。今は夫婦共働きが多いから、地域で見守るにも子ども達が遊んでいる時間に親が仕事中ということは多くなっているしね。ボール遊びが本当にそこまで危険だと多くの人が思っているなら、ボール遊びが出来る公園とできない公園を明確に区別して、子ども達にもしっかり教えてあげれば良いんじゃなかな。
僕もそういう事が分かってたら殴られなくて済んだのにな・・・。じゃあ先生は地域で決めたら良いと思っているんだね?
そうだね。一部の声を聞いてそれが全てかのように決定を下してしまうのは間違いだと思っているよ。もし、その公園でボール遊びが禁止というルールを設けるなら、その地域住民の投票なり話し合いなり、納得する形で決めないとね。
体罰が必要?その体罰とは?
ディアボロ先生!もし、ウサ子先生のクラスのルーサー君はよく喧嘩してるんだけど、それを止めようとウサ子先生が必死にルーサー君を羽交い締めにしてたんだけど、これって体罰じゃないよね?
もちろん体罰じゃないよ。先生達には体罰は認められていないけど、「体罰に当たらない正当な行為」は認められている。参考までに下の事例を見てみて。
体罰には当たらない正当な行為の事例
正当な行為(通常、正当防衛、正当行為と判断されると考えられる行為)
○ 児童生徒から教員等に対する暴力行為に対して、教員等が防衛のためにやむを得ずした有形力の行使
・ 児童が教員の指導に反抗して教員の足を蹴ったため、児童の背後に回り、体をきつく押さえる。
○ 他の児童生徒に被害を及ぼすような暴力行為に対して、これを制止したり、目前の危険を回避するためにやむを得ずした有形力の行使
・ 休み時間に廊下で、他の児童を押さえつけて殴るという行為に及んだ児童がいたため、この児童の両肩をつかんで引き離す。
・ 全校集会中に、大声を出して集会を妨げる行為があった生徒を冷静にさせ、別の場所で指導するため、別の場所に移るよう指導したが、なおも大声を出し続けて抵抗したため、生徒の腕を手で引っ張って移動させる。
・ 他の生徒をからかっていた生徒を指導しようとしたところ、当該生徒が教員に暴言を吐きつばを吐いて逃げ出そうとしたため、生徒が落ち着くまでの数分間、肩を両手でつかんで壁へ押しつけ、制止させる。
・ 試合中に相手チームの選手とトラブルになり、殴りかかろうとする生徒を、押さえつけて制止させる。
文部科学省ホームページより抜粋
事例を読んでみたけど、確かに体罰ではないと思うよ。周りの話を聞いていると何でも体罰のような気がしてきちゃったんだよね。
考えてみれば当たり前なんだけど、ちゃんと書面にしておかないと、トラブルになってしまうからね。
ある芸能人が、体罰がないと先生が舐められるって言ってたんだ。僕は先生に叩かれた事ないけど、そんな事ないよ。先生はどう思う?
暴力がなければ舐められるという前提に立つなら、女性の先生はみんな舐められることになるね。でも実際はそうではないのは明らかだよね。あと、舐めれる舐められないで考えるのはどうかと思うよ。暴力教師がいたとして、生徒から「あいつまともに指導出来ないからって暴力振るってやがる。あいつバカだぜ。」と、もし生徒から言われていたとしたら、この暴力教師は舐められていることにならないかな?自分に自信のない、いわゆる自尊心の低い者は、他人の中で自分より劣っていると思われる部分を必死で探して自分より劣っている者だと解釈しようという面がある。だから、舐められるという観点で教育を考えるのではなく、そんな者にこそ自尊心を持てるような教育が必要なのであって、決して体罰という暴力によって、さらに自尊心を下げるような事をすべきではない。
なんかわかる気がするな〜。ルーサー君のお家に遊びに行った時、ルーサー君のママがルーサー君に冷たかったんだ。なんか可哀想な気がしたのを覚えてるよ。
教育基本法
第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。四 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。五 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。六 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。七 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。八 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。九 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。
地域で子どもを育てにくい時代に必要なもの
大人が子ども教育するというのは非常に難しい。何故なら学校で子育ては学んだ事がなく、ほとんど親から教わるか、親から受けた教育を自らの子に同じようにする以外の方法はなかなか見つかりにくいからだ。昔は今ほど核家族化が進んでおらず、大きな家族、そして地域で子どもを育てられたので、多くの育て方を目の当たりに出来た。子どもは親の振りを見て、教育を受けて育つ。子どもに問題があるとすれば、それは親や周囲に問題があるか、そもそもそれは問題ではなく、その時期の子どもの特徴を示しているだけかもしれない。子どもは成長過程で多くの課題をクリアしていく。新生児であれば泣く事が仕事である。幼児期であれば欲求がすぐに満たされなければ癇癪(カンシャク)を起こす。しかし自分の感情を理解し問題を解決できるようになる時期でもある。園児の時期になれば力関係に興味を持つようになり、偉そうな態度をとったり病気のふりをしたり、他人の言う事を無視するようになる。そういった事は子どもの仕事であり、当然の事なのだが、それに腹を立ててしまう親もいる。子どもには親ならば愛情を持っているのが普通かもしれないが、思い通りにならなければ腹が立つのは親だけではなく人間なら当たり前のこと。だからこそ、子どもの成長過程でクリアしないといけない子ども自身の仕事を親が理解しておかなければならないのだ。そうすれば、子どもに対する不満や不安も少しは和らぐはずだ。
愛情があるにも関わらず、どうして良いか分からない。私は子どもに好かれていないという親も少なくない。それはこの時代特有も問題なのかもしれない。この小さな閉鎖された社会の中で子育てしなければならないのは大変である。この子は普通なのかと分からなくなり不安になる事もあるかもしれないが、その為にも知識を蓄えておく必要がある。そしてどうしても分からない事があれば、各都道府県や市区町村には子育てに関する相談窓口があるので、相談すると良いと思う。
最近は女性の社会進出が当たり前になっていながらも、子育ても女性だけでほとんど行っている家庭も少なくない。悩みはなるべく早く解決した方が良い。そして、日本の残業当たり前社会も解決できればと思う。
家庭でも学校でも、子どもの問題行動にはどういった問題が潜んでいるのかを理解しなければならない。その問題解決方法は決して体罰ではなく、理由を一緒に考え、導く姿勢が必要なはずだ。私たち大人が子どもに手をあげるのは、まさしく教育においてのお手上げ状態なのだ。私たちはいくらでも教育、子どもの発育発達の知識を得られる環境に生きている。それをせず、ただ自らが受けてきた教育を正しいものだと盲目的に信仰するのであれば、そこになんら発展の余地はない。私たちはいつも昨日よりも良いものを、子どもたちにとって良い社会になればと願っているはずだ。子どもの為に学ぶ事は、自分自身の為にもなる。自分自身の為に学ぶ事も子どもの為になるはずなので、体罰という考え方は捨てる世の中になればと願っている。