【動画配信】読解力低下が意味する日本の問題

日本の子どもたちの読解力低下が報道されている。読解力とは文章を読んで理解する能力のことだが、その力が低下しているのはなぜなのだろうか。読解力の低下は私たちにどのような問題を伝えようとしているのだろうか。文化の発展と意志を継ぐという観点も踏まえて考えていきたい。

読書量が少ない、教育の問題、Twitterなど短文でのやり取りの増加などが指摘されているが、私はどれも当てはまらないように思っている。なぜなら子どもたちの読書量が減少しているかと言えば、昔からそう多くはないと思うし、教育のどのあたりが昔と比べて変化したかがわからないし、Twitterでのやり取りが読解力が低下するとは思えないからだ。

Twitterなどの短文でのやり取りは、むしろ決まった字数で伝えたいことを要約して誤解のないように記さなければならない。もちろんそこまで考えてTwitterを利用している人は少数であろうが、発言をする事がマイナスになるだろうか。

むしろ私は目上の人との会話の機会の減少が一番問題なのだと思っている。

夫婦共働き時代

そもそも子どもたちの親の多くは共働きである。そうするとどうしても家事などは仕事が終わってからということになり、必然的に子どもとの会話の機会が減る。

子どもは同年代の子どもたちとのコミュニケーションは豊富であろうけども、それは多くの場合言葉のボキャブラリーを増やすことに貢献しないし、今まで知らなかった言い回しを知る機会にはならないだろう。

大人は生きた時間の分だけ多くの言葉を知り、多くの言い回しを獲得する。そして何より、他人に何かを伝えようとするときに、相手に分かりやすく説明する力を獲得していく。それは大人の社会で生きていくには必須と言える力だ。

そんな親と子どもとのコミュニケーションの時間が短くなる事は、決して子どもにとってプラスにならないという事は理解できるのではないだろうか。

近所付き合いの低下

昔は近所付き合いは重要とされていて、それは今のように多種多様なサービスがあり、デジタル化が進み、多くの不便が解消された時代ではなく、当時そう思う人は少なかったかもしれないが、今から考えればかなり不便な時代だった。

例えば、スーパーが24時間営業などなかったし、コンビニもなかった。何か買い忘れたらしばらく手に入らないという事さえあった。

そんな中で近所付き合いがあれば、「ちょっと醤油貸してください」という『お願い』が出来るのだ。今、学生の人たちにはこんな話は信じられないと思うかもしれないが、これは例えの一例に過ぎず、多くの『お願い』をしなければならない生活があったのだ。

「子どもを預かってくれませんか」「うちには車がないので、そこまで乗せてくれませんか」「電話を貸してもらっていいですか」などの多くの『お願い』をする事で、助け合って生活が成り立っていたのだ。

しかし、先ほども述べたように今の日本は個人で生きていける時代になり、煩わしい?近所付き合いをしなくても仕事さえあれば問題なく生きていけるのだ。

そうなれば、多くの人がわざわざ近所付き合いを率先してしなくなり、もはや隣にどんな人が住んでいるのか、名前さえさえ知らないという人もいる。

親たちがそのような状況であれば、子どもたちも近所の大人たちとの交流も減るのは当然のことだ。

祖父母の同居と近居は全く別

日本は核家族世帯が増えたが、祖父母と同居の割合は減っている。しかし遠いところに住んでいるというよりも、近居である割合が高い。近居とはおおよそ車や電車を利用し一時間以内の場所に住んでいる事を指すようだ。

しかし、子どもたちにとって同居と近居は全く別の話だ。先ほども述べたように、普段の目上の人との会話の少なさを補うには近居ではほとんど意味をなさず、同居であることが重要なのだ。

さらに、子どもは大人たちの会話を聞くこともまた勉強なのであり、家の中に大人が多ければその分多くの言葉や言い回しを学習していくものだろう。

出生率の減少

日本の合計特殊出生率は平成元年に1.57まで低下し、そこから減少を続けており、2018年は1.42まで低下した。その結果、2010年にはそれまで2人以上を維持していた夫婦の完結出生児数は1.96人まで低下する。それは当然家族の人数が減ることを意味し、家庭の中での会話の量の減少を意味する。

出生率の低下はかなり前から起こっている。大人たちの中でも読解力が低下しているのと無関係ではないのではないか。

子どもは直接の会話だけでなく、大人同士の会話や、兄弟姉妹が親と会話している内容を聞いているものだ。そういった直接的な会話ではなく、客観的な会話を聞くのはおそらくかなり重要である。

兄が怒られているのを見て、弟は同じ轍(てつ)を踏まじと行動を改めるものだ。そのように家族間の会話は直接会話している者同士だけでなく、他の者にも影響を与えるものなのだ。

読解力は本を読むだけで向上するものではないはず

読解力を向上させようと思えば、まず読書をすることを勧められる。それは至極当然であるが、私たちは会話を通してその意味や文脈を理解することだって出来る。

であるなら、やはり大人たちとの会話の量が減る事は、子ども達にとって大きなマイナスである事は間違いないはずだ。

これまで述べたように、近所との関わりや祖父母との関わり、そして家族との関わりは、環境要因であり、子どもたちの読解力向上は多くの場合、能動的な成長意欲を通して獲得するものが決して大きい訳ではないと考えられる。

であるからこそ、私は動画の中でも述べているが、高齢者と子どもを結びつけるコミュニティが必要なのだと考えている。それは、子どもたちが積極的に関わりに行くことがベストではあるが、そうならないとおそらく多くの人が感じている事を私も感じているからである。

学校の中にデイサービスをという突拍子もない案を考えたが、実現は難しいだろう。しかし、方法は別として、なぜやる必要があるのかが重要であり、それがもし正しいと認識されるのであれば、方法はいくらでも出てくるはずだ。

私は読解力の問題ではなく、単純に高齢者の経験を子どもたちに話す機会は社会にとって重要であると考えている。

それは、今この記事を読んでくれているなら間違いなくパソコンやスマホなどのデバイスを使用していると思うが、そのデバイスは、原始時代に生まれた人間が一世代で生み出せるようなものではなく、長く人類が知識や経験を次の世代へと繋いでいったからこそ生み出せるものだからだ。

その観点があれば、身の回りのほとんど全てがそうであることに気が付くはずだ。道路も信号も電車も車もベビーカーも家もだ。

そういった物だけでなく、考え方も教わり自らの経験の如く心に刻みながら生き、そしてまた次の世代につないでいく。そうして物と精神の発展があったと考えている。

AIが進化し、私たちは労働からある程度自由になれる可能性を秘めている今、最も大切にしなければならないのは考え方ではないだろうか。

自分で考える力を身につけるには、まず多くのことを知り、他者の生々しい経験を自らの経験のように捉えるイマジネーションが必要である。そして多くの知識と経験をもとに、自分とは何で社会とは何か、自分のすべきことを考えられるようになるのではないかと思っている。

世代間交流が希薄であるのは、そういった個人の心の問題と社会の関係にも繋がっていくと考えている。昨今の読解力低下のニュースは、そういった日本の問題を映し出しているのではないだろうか。

西 友広
  • 西 友広
  • 趣味:映画鑑賞(ジャンル問わず)
       山登り