【コラム】池袋暴走事故の時間切れ作戦をどう捉えるべきか

2019年4月19日、東京都豊島区の池袋で発生した自動車事故。いわゆる「池袋暴走事故」の東京地裁における検察側の論告求刑は禁錮7年の自動車運転処罰法で最上級のものだった。(過失運転致死傷罪:7年以下の懲役もしくは禁錮又は100万円以下の罰金)

この事件は検察側の主張によれば、飯塚被告がアクセルペダルとブレーキペダルを踏み間違えたことによって引き起こされた事故であり、過失運転致死傷罪が適用されるものである。(過失とは故意ではないという意味)

この事故による被害者は松永真菜さん(当時31)と長女の莉子ちゃん(当時3)の2人の命が奪われ、他にも9人が重軽傷を負った。

ここまで多くの被害者が出たものの、過失による事故であるので、最上級の処罰であったとしても禁錮7年を超える実刑判決はでない。しかし、これは当然であり、もし過失による事故にも関わらず、これ以上に長い禁錮刑が課せられるのであれば、車を運転する者は減るであろう。

どれだけ多くの死傷者が出たとしても、過失であれば加害者も法によって守られなければならない。

このニュースを見た国民の中で、憤りを感じている人は多い。それは、加害者である飯塚被告の反省が全く感じられないその態度に憤りを感じているようだ。さらに逮捕されずに自宅で今まで通り生活しているという点においても、「上級国民」というワードを用いて、特別扱いされているという認識を持つ人たちもいる。

さらに、飯塚被告側の弁護士は、「被告がアクセルペダルを踏み続けたことを証明する証拠やデータはなく、したがって、被告の過失は認められないため無罪である。」と主張している。

それが事実ならそう主張するのは正しい。しかし、ここには矛盾が生じている。それは、通常であればその主張を証明するために何らかの証拠を提示すべきであるが、そういった事はほとんどない。

今回、トヨタが本事件において、車に異常は認められなかったとコメントしているが、もし自動車のトラブルによる事故だったとするなら、事故を起こした車のメーカーが調査するということ自体違和感を感じる。本来であれば第三者機関のようなものが調査しなければ証拠隠滅など容易に出来てしまうと考えられるが、そういった事に対して弁護側はなんら反論をしていない。

それは、トヨタの調査に対して反論する材料を持っていない。そもそもその事において反論する気はないのか。ということは、容疑者の過失を暗に認めているという事になるのではないだろうか。

これから考えられることは、時間稼ぎをしているということだ。あくまでもこれは私見ではあるが、飯塚被告の年齢を考えれば、第一審の判決を不服とし控訴し、第二審の判決をまた不服として上告するというプロセスを踏めば、1年近く裁判を長引かせることが可能となる。人生のタイムリミットが近づいている被告としては、おそらく禁錮7年の実刑判決を受け入れれば、刑務所で人生の幕を閉じる可能性が高い。もし、無罪を勝ち取れれば被告にとってメリットではあるが、もし反省を十分にし、自らの過失による事故であると認め減刑を勝ち取っても、結局刑務所で人生の幕を閉じるのであれば意味がないと考えるかもしれない。

ならば裁判を長引かせ、現在逃亡の恐れなしとして逮捕もされず自宅で生活出来ているこの時間をなるべく長く維持することを求めていると考えて、なんら不思議ではない。0か100か。どちらにしても最終的な実刑判決が出るまでの時間稼ぎを行う。そういう考えがあるかもしれない。

しかし、そんな事が許されて良いのだろうか。私たちは被害者ではないし、被害者家族でもないが、憤りを感じるのは、大切な人を失うという悲しみに対して、当然報いを受けるべき容疑者が結局逃げ切るというやるせなさがあるからではないだろうか。

何の為に処罰するのか

では、そもそもなぜ処罰しなければならないのか。「刑罰は犯罪に対する当然の報いである」という考えは応報刑論と呼ばれる。それとは別に「人々が罪を犯さないようにする為に刑罰が存在する」という考え方を目的刑論と呼ばれる。

目的刑論の中でも、一般の人々が犯罪を犯さない事を目的とする考え方を「一般予防論」といい、処罰される犯罪者が犯罪を繰り返さないようにする事を目的としている考え方を「特別予防論」という。刑罰があるという事実を周知させることにより犯罪を予防するという考え方だ。

今回の事件において、飯塚被告は初犯であり、自分の過失は認めていないとしても、「心苦しいと思っておりますが、私の記憶では踏み間違いはしておらず、過失はないものと思っております」という言葉を用い、全く反省していないとは言えない何とも微妙なニュアンスの発言をしている。

最終的な判決がどのようなものになるかは分からないが、検察、被害者家族が求める結果が得られる可能性は低いように思う。反省しているかどうかを抜きにして、おそらく過失の域を超える(危険運転致死傷罪)ことはなく、過失運転致死傷罪刑の中の最上級の刑が言い渡される可能性も低いだろう。

一般予防論としては、今回は過失による事故であるが、車を運転する以上、運転する能力が万全なものでなければ人を殺傷する可能性が高くなるという認識を多くの人々に周知させる意味があると考えられる。初犯であるからといって刑を軽くしすぎれば、同じような事件が繰り返される可能性があるし、それでは過失運転致死傷罪の一般予防論的観点が弱まるのではないだろうか。

ドライバーは常に自分も含め、人を殺傷する可能性を考えなければならない。それが特に体が弱っていたり体調が悪い時はなおさら運転できるかどうか考えなければならない。

特別予防論としては、今回の容疑者の年齢から考えて、もし執行猶予付き実刑判決により、刑務所ではなく普通の生活が出来る状態で、また車の運転が可能な状態になった場合、本人は同じような事故を起こしたとしても、おそらく今回と同じように裁判を長引かせる作戦を用いるだろう。

本当に反省していて、なおかつ過失を認めるのであれば、おそらく運転は今後しないであろう。しかし、過失に関しては一切認めない態度を貫いている。

私はこの点が大いに懸念している。

車の問題ではないことが前提であるが、過失を全く認めていないという事は、もし無罪、または執行猶予つきの判決が出た場合において、被告は同じ過ちをしかねない。

それであれば何の為の刑罰なのかを考え直さないといけない結果になってしまわないだろうか。

過失であったとしても人の命が簡単に奪われてはいけない。過失であったとしても刑罰を受ける理由は、それだけ人命を奪う事を出来るだけ回避しなければならないからである。刑罰の存在理由の一つである。

多くの人が飯塚被告に対して最上級の刑罰を望むであろうが、それは犯した罪を償って欲しいという事もそうだが、次の被害者を出さないという点においても軽い刑で済むような事がない方が良いのだろう。

そして、最後に繰り返しになるが、過失を認めていないにも関わらず、その証明に尽力しないのであれば、被害者や遺族に対していくら謝罪をしても謝罪だと受け取られないのは当然である。

今後、控訴、上告を行うであろうと推測するが、もし時間切れ作戦が実を結ぶ時、私たちはそれこそやるせない気持ちになるだろう。しかし、せめて被害者や遺族に対して、そして、同じような被害者が少しでも減るように、被告が刑期を全う出来なくても被害者や遺族が納得できる判決が出る事を願う。

西 友広
  • 西 友広
  • 趣味:映画鑑賞(ジャンル問わず)
       山登り

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